「今すぐ、どんな願いでも一つだけ叶うとしたら、何を願う?」
以前、ある交流会でそんな質問をされたことがある。参加していた皆さんは、「世界旅行へ行きたい」「家族と南の島へ移住したい」「理想の家に住みたい」などと答えていた。どれも楽しそうで、願いが叶ったあとの光景が目に浮かぶような、素敵な答えだったと思う。
だが、私の答えは、「この世のすべてが書かれた本が欲しい。読みたい」だった。
自分でも、どうかしていると思う。何でも叶うと言われているのに、地位でも、お金でも、旅行でもない。この世界は何でできていて、人間はなぜ生まれ、運命はどのような仕組みで動き、私たちがまだ知らない場所には何があるのか、それらがすべて書かれている本があるなら、欲しい、読みたいと思ったのである。
この答えは、ある話につながる。少し前、私の前の人生を教えてもらった、その話。過去生の私は、ある書物を読みたいがために、汚職にまみれた権力の世界へ踏み込んだのだという。
そして今になって自分のD9、ナヴァーンシャを見直してみたところ、その話が驚くほどそのまま書かれていることに気づいた。
宇宙人に過去生を見てもらった
2022年、私は明治神宮で、少し不思議な能力を持つあさみさんのセッションを受けた。あさみさんは高次の存在と会話することができ、私と話してくれた存在は「宇宙から来た精神体」だということだったので、この記事ではそのまま宇宙人と呼ぶことにする。
過去生が本当に存在するのか、そのときに語られた話が客観的な事実なのかは証明できないので、フィクションとして読んでもらっても構わない。ただ、このセッションで聞いた話は、自分でも説明できなかった感覚の正体を考える、大きなきっかけになった。
セッション当日の詳しい経緯は、note「明治神宮で自分の過去世と向き合った話。」に書いているので、ここでは今回のD9の話に必要な部分だけを取り上げたい。

その日の私は、「インド占星術の知識と理解をもっと深めたい」と話した。すると、ひとつ前の過去生について教えてもらうことになった。
その話によれば、私は中国か、あるいはさらに西方にある仏教系の寺院で、高僧の小間使いとして暮らしていたそうだ。幼い頃から寺院に身を寄せ、とても勉強熱心で、知識欲が強く、本をむさぼるように読んでいた。高僧たちからも可愛がられ、その期待に応えようと必死に学び、働いていたらしい。
やがて、その真面目さと能力を認められた私は、高僧の後継者として組織の上層部へ取り立てられることになった。
欲しかったのは、権力ではなく書庫の鍵だった
私がその昇進を受け入れたのは、権力が欲しかったからでも、お金が欲しかったからでもない。組織の上層部に入れば、権力を持つ者だけに閲覧を許された書物を読むことができるからだった。
私は、その誘惑に負けたのだという。
いや、分かる。ものすごく分かる。
読んだことのない本がある。それも、普通の人には読むことを許されていない本が、閉ざされた書庫の中にある。その書庫に入れる立場になれると言われたら、相当ぐらつくと思う。実際、今すぐ何でも願いが叶うと聞かれて、「この世のすべてが書かれた本を読みたい」と答えているのだから、過去生からほとんど進歩していない。
過去生の私は、知識を得て、仏教への理解と信仰を深め、それによって人々を救いたいと考えていたらしい。権力そのものを求めたのではなく、その先にある知識へ近づくために、組織の階段を上っていったのである。
ところが、上層部へ入り、寺院や都市を運営する側になると、それまで知らずに済んでいた現実を見ることになった。
書庫に入りたかっただけなのに
大きな寺院を維持し、人を養い、建物を守り、共同体を運営するためにはお金が必要になる。しかし、現実は信仰や善意だけでは回らない。そこには献金、汚職、不透明な資金、私腹を肥やす高僧たちがいて、真面目で信心深く、汚いものを見ずに育ってきた私は、強い嫌悪感を抱いたという。
それでも、責任ある立場に就いた以上、自分だけきれいなままではいられない。組織や都市を維持するためには資金を調達しなければならず、その中には、とても正しいとは思えないことも含まれていたのだろう。
私は自分のできる範囲で市井の人々に施しをし、野良猫に餌を与えるよう、地域の子どもたちへお金を渡したりしていたそうだ。しかし、一人の人間が個人的に善良であろうとすることと、巨大な組織を清廉に運営できることは別問題である。
そうして私は、自分自身も黒い金に手を染めた。その人生で心の奥深くに刻みつけたものが、「金は汚い」という、潔癖症に近い思いだったのだという。
私の中にあった「お金を手に入れてはいけない」という感覚
この過去生を見てもらうきっかけになったのは、どうして私にはこんなにも強く、「お金を手に入れてはいけない」という思いがあるのだろう、という問いだった。
今ではだいぶ解消されたけれど、かつての私は本当にお金に関してポンコツだった。お金を稼ぐことは汚い、お金儲けはよくない、大金を持つと人間は悪に染まるという思いがあり、20代の頃には財布の中に13円しかないような状態も珍しくなかった。持っているお金は使い切るのが普通で、今になって考えれば、お金がなかったというより、「お金を持っている状態」が怖かったのだと思う。
誰かのために何かをしても、代金を受け取ることができなかった。「やってあげている」のではなく、「やらせていただいている」のだから、お金をもらうなんてとんでもないと、本気で考えていた。
現在の私は、占い師として知識や時間を提供し、その対価を受け取っている。それでも、自分の作ったものに値段をつけたり、仕事を商品として形にしたりするとき、心の奥から何かが引き止めてくることがある。本当に受け取ってよいのか、こんなことでお金をもらってよいのか、知識をお金に換えるのは、どこか卑しいことではないのか。
理屈では、その考えがおかしいことは分かっている。それでも消えない感覚が、私の中には確かにあった。
そして今、自分のD9を眺めていた私は、この過去生の話が、あまりにもそのままチャートに表れていることに気づいた。
D9を過去生として読む
インド占星術のD9、ナヴァーンシャは、一般には結婚や配偶者、ダルマ、惑星が成熟したあとの状態などを見るために使われる。もちろん、私のD9も配偶者については非常によく表していて、ドンピシャだと思っている。
ただ、私はそれとは別に、D9を「過去生から持ち越したダルマ」や「過去の経験によって刻まれたサンスカーラ」として読む方法も気に入っている。実際、鑑定でこれをやると実に受けが良い。みんな過去生を知りたいんだよね。分かる。
もちろん、D9だけを見て、過去生ではチベットにいました、寺院にいました、都市を運営していました、などと具体的な物語まで断定することはできない。しかし、すでに語られた過去生の話とD9を重ねてみると、そこに同じ構造が現れていることがある。
私のD9は、その一致がかなり露骨だった。

ラーシでは木星が9室にいるのに
私のラーシでは木星が9室にあり、同じ9室には水星と金星もある。知識を学び、それを言葉や鑑定や文章によって人へ伝えること、宗教、占術、思想、教育、執筆といった分野に関わることは、出生図にもかなり分かりやすく表れている。
実際、私はインド占星術を学び、占いを仕事にし、文章を書き、パンチャンガの知識を体系化しようとしている。ラーシの9室木星は、知識や思想そのものについては、きちんと働いていると思う。
さらにラーシにはラージャヨーガやダーナヨーガもある。知識や才能を仕事へ結びつけ、社会的な成果や財へ変えていく可能性がないわけではない。むしろ、配置だけを見れば材料はある。
それなのに、私は長い間、せっかく木星が9室にあるのに、なぜ木星的な成果を受け取ることがこんなにも下手なのだろうと思ってきた。学ぶことはできるし、知識を人へ伝えることもできるのに、それを社会的な信用や安定した収入として受け取る段階になると、急に難しくなるのである。
その答えが、D9の中にあった。
ラーシとD9の乖離
職業柄、多くの人のチャートを見てきたけれど、ラーシとD9の間に、それほど大きな乖離を感じない人が多い。ところが、自分のチャートを見ると、私はかなりの落差を感じる。
ただし、ラーシとD9がまったく違う人生を語っているわけではない。ラーシで強く示されている学問、思想、占術、知識を体系化するという方向性は、D9にもはっきりと引き継がれている。
違っているのは、知識や才能があるかどうかではない。それを社会的な立場、信用、報酬へ変換する部分である。
ラーシでは、学ぶこと、教えること、書くこと、専門知識を仕事にすることが示されている。一方のD9では、その知識を現実の社会で成熟させ、対価を受け取り、継続可能な仕事として成立させるまでに、責任、犠牲、罪悪感、制度との摩擦を通過しなければならない。
同じ物語を語っているのだが、D9のほうが、ずっと辛口なのである。
9室の金星―知識と信仰を愛した人
私のD9は水瓶座ラグナで、9室の天秤座には自室の金星がある。水瓶座ラグナにとって金星は、4室と9室を支配するヨーガカーラカであり、その金星が9室の自室に在住している。
9室は、宗教、哲学、古典、高度な学問、信仰、師、ダルマなどを表す場所である。過去生として語られた人物の中心にあったのは、権力欲でも金銭欲でもなかった。本を読み、知識を得ることへの純粋な喜び、宗教や思想を深く理解したいという欲求、そして人や生き物への慈悲だった。
この部分は、9室で強い金星によく表れているように思う。汚職に関わったからといって、その人物の根まで腐敗していたわけではない。むしろ、学問や信仰、倫理への思いが強かったからこそ、現実の組織運営の中で深く傷ついたのではないだろうか。
過去生の物語の中で、最後まで壊れなかったものがあるとすれば、この金星なのだと思う。書物や信仰を愛し、人や動物を見捨てられないという核は、権力構造の中へ入っても失われなかった。
5室と8室を支配する水星―閉ざされた本を読みたい
D9の水星は5室と8室を支配し、3室の牡羊座にある。5室は知性、学習、過去から持ち越した才能を表し、8室は秘密、秘伝、隠された知識、一般には公開されていない情報を表す。そして3室は、読むこと、書くこと、調べること、自分の手を動かして情報を得ることに関係する。
つまり、隠された知識を、自分から読みに行く人である。
しかも水星は牡羊座にあるので、「機会があれば読んでみたい」という受動的な好奇心ではない。何が書かれているのか知りたい、今すぐ読みたい、閉ざされた扉の向こう側を確認したいという、かなり能動的な知識欲になる。
高位の人間にしか許されていない書物を読むために昇進を受け入れたという話と、よく重なる。というより、そのままである。
今の私が、パンチャンガの判定基準を何度も検証し、例外を探し、一般規則と個人補正を分け、正本を作ろうとしていることにも、この水星はよく表れていると思う。単に占いの結果を知りたいのではなく、その結果がどのような構造によって導き出されるのか、仕組みの奥まで確認したいのである。
10室の土星と減衰月―地位はあるが、心が苦しい
D9の10室、蠍座には、ラグナロードの土星と、減衰した月がほぼ同じ度数で在住している。最初に自分のD9をきちんと見たとき、この配置に絶望したのを覚えている。かなり辛い。これは。
10室は社会的地位、職務、責任、権限を表し、土星は制度、重い責任、長期的な労働、逃れにくい義務を表す。蠍座は、秘密、権力構造、危機、組織の深部、表には出せない事情に関係する。
そこに減衰した月があるため、地位や責任を得たとしても、それがそのまま満足や安心には結びつきにくい。仕事を遂行する能力はあっても、組織の秘密や感情的な負担を抱え、心を押し殺しながら責任だけは果たさなければならない。
さらに、10室支配星の火星は7室獅子座にあり、4番目のアスペクトで自室である蠍座10室を見ている。この10室は決して弱くない。むしろ、実行力も権限も強い。
過去生の私は、誰かに利用され、何も分からないまま汚職に巻き込まれた無力な人物ではなかったのだと思う。能力があり、責任感があり、組織や都市を実際に動かす力を持っていたからこそ、高い地位を与えられ、簡単には逃げられなかった。
倫理観のある人物が、腐敗した制度の実務責任者になってしまった。このD9の10室は、まさにそんな苦しさを感じさせる。
同時に、現在の私が自分を「社会不適合者なのではないか」と感じやすい理由も、ここにあるように思う。社会性や職業能力が存在しないわけではなく、むしろ責任ある役割を担う力は強いのに、既存の組織へ素直に適応して安定することが難しいのである。
この配置での社会的成熟は、用意された階段を順番に上ることではないのだろう。自分が責任を負える範囲で仕組みを作り、長い時間をかけて自分なりの社会との接点を育てていく。昔から大器晩成型と言われてきたが、単に成功が遅いというより、自分に合った社会参加の形そのものが、時間をかけなければ完成しない配置なのだと思う。
財の支配星・木星が12室で減衰している
そして、「お金は汚い」という記憶に最も強く関係しているように見えるのが、D9の木星である。
水瓶座ラグナでは、木星は2室と11室を支配する。2室は財産、蓄積、保有する資源を表し、11室は収入、利益、調達される資金を表す。
その木星が、12室の山羊座で減衰している。
12室は、支出、損失、犠牲、隔離された場所、僧院、組織の裏側などを表す。財を集めても自分のものにはならず、資金を調達しても共同体を維持するために消えていき、お金を扱うほど、犠牲や罪悪感が増えていく。
しかも木星は、知識、倫理、宗教、正しさを表す惑星でもある。その木星が、制度や現実を表す山羊座で本来の力を失っているため、宗教的な理想と現実の財政運営が折り合わず、信仰や共同体を守るために、信仰に反するようなお金まで扱わなければならない。
過去生で聞いた、「都市を維持するためには資金が必要で、きれいごとだけでは運営できなかった」という話と、あまりにもよく重なる。
もちろん、この木星には減衰取消の条件もあるので、単純に弱い木星、救いのない木星と断定するものではない。ただし、最初から自然に木星的な恩恵を受け取れる配置ではなく、現実的な責任を引き受け、仕組みを作り、長い時間をかけて倫理と金銭の扱いを一致させることで、少しずつ回復していく木星なのだと思う。
幸運に引き上げられて簡単に拡大するのではなく、土星的な労力によって、後から木星の資格を得ていく。学んだことを体系化し、提供する範囲を明確にし、値段を決め、継続可能な形へ落とし込むという作業が必要になる。
知識の中身はあっても、それを社会的な信用や収入へ変える部分に、ひどく時間がかかるのである。
2室ラーフと8室ケートゥ―お金への飢えと拒絶
さらにD9では、2室にラーフ、8室にケートゥがある。財産と共有資源の2―8室軸に、強い飢えと断絶が存在している。
お金は必要なのに、持つことが怖い。経済的な不安を抱えているのに、受け取ろうとすると罪悪感が生じる。自分のお金と、他人や組織のお金との境界に、秘密や混乱が入りやすい。
「もっとお金があれば安心できる」と思う一方で、「お金を求める自分は汚いのではないか」という感覚もある。欲しいと拒絶が同時に存在するため、収入の問題が単なる金額の問題ではなく、倫理や自己評価の問題にまで広がってしまう。
過去生の物語を聞いたあとに作ったチャートではない。私が生まれた瞬間から、この配置はそこにあった。
それが、面白くて仕方がない。
D1の木星は知識を与え、D9の木星は受け取り方を問い直す
ラーシの木星は、私に学ぶ場所を与えた。インド占星術やパンチャンガのような、自分が心から面白いと思える知識に出会い、それを掘り下げ、人に伝えるところまでは、比較的自然に進んできたと思う。
ところがD9の木星は、その知識をどうやって現実の社会で扱うのかを問い続ける。無料で渡すのか、対価を受け取るのか、どこまで公開し、どこからを商品にするのか、自分が権威を持つことを許せるのか、受け取ったお金を何に使うのか。
知識を得ることは純粋だが、その知識でお金を得ることは汚い。人へ伝えることはよいが、知識によって地位や権威を持つことは危険である。そんな分裂が、私の中には長い間あった。
ラーシとD9の落差は、その分裂をそのまま表しているように思う。せっかく木星が9室にいるのに、どうして私は木星的な成果を受け取ることがこんなにも下手なのだろうと考えてきたが、D9を過去生として読むと、その理由がひどく生々しい物語として見えてくる。
D9の木星は、私に「知識を持っているだけでは足りない」と言っているのかもしれない。その知識を、倫理を損なわず、誰かを搾取せず、自分も犠牲にせず、正当な対価が循環する形で社会へ渡せるようになるまで、木星の課題は終わらない。
猫まで同じ過去生にいたらしい
ここで、少しだけ猫の話をしたい。
過去生の僧侶だった私は、ときどき市中へ出て人々の暮らしを見回り、野良猫のことも気にかけていたそうだ。猫たちに餌を与えるため、地域の子どもへお金を渡し、世話を頼むこともあったという。
その後、別の機会に、今一緒に暮らしている猫との因縁を聞いてみた。すると、あの過去生で世話をしていた野良猫のうち、特に私に懐いていた一匹が、今の猫なのだと言われた。
もちろん、本当かどうかは分からない。D9を見たところで、特定の猫が同じ魂なのかを確認できるわけでもない。
それでも、知識への執着、お金に対する罪悪感、猫との縁が、全部ひとつの過去生の物語に収まっている。あまりにも出来すぎていて、面白い。
前の人生でも猫の餌を手配し、今の人生でも猫の生活を心配している。本を読みたいという欲望だけでなく、猫に対する姿勢まで、あまり変わっていないらしい。
どうやら、私は前の人生から変わっていない
ここで最初の質問に戻る。「今すぐ、どんな願いでも一つだけ叶うとしたら、何を願う?」
私の答えは、「この世のすべてが書かれた本が欲しい。読みたい」だった。
過去生で、高位の人間にしか読めない書物を読むために、苦しい役職へ就いたといわれた人間が、今世でも何でも願いが叶うと言われて、また本を読もうとしている。地位や権力が欲しいわけでも、莫大な財産が欲しいわけでもなく、ただ、この世界がどのようにできているのかを知りたいのである。
前の人生で相当痛い目に遭ったにもかかわらず、私の知識欲はまったく懲りていないらしい。
今世では、自分で書庫を開けばいい
もし、この過去生の物語が本当だったとしたら、私が今世でやるべきことは、お金を拒絶して清貧に生きることではないのだと思う。
過去生では、「お金を扱えば人は汚れる」「高度な知識は権力を持つ者だけが独占する」という構造の中にいた。知識へアクセスするために権力構造へ入り、組織を維持するために、自分の倫理観と折り合わないお金を扱った。
今世では、その構造を作り直せばいい。
何に対して、いくら受け取るのかを明確にし、受け取ったお金を何のために使うのかを意識する。自分の知識や技術に適切な対価を設定し、その対価によって、学びと発信を継続できる仕組みを作る。
お金を拒絶するのではなく、清潔に扱う。知識を閉ざされた書庫へ囲い込むのではなく、自分の言葉で整理し、必要な人へ届く形で公開する。
前の人生では、誰かが管理する閉ざされた書庫に入るために、権力構造の中へ入っていった。今世では、自分が学んできたことを整理し、自分で書庫を作り、自分でその扉を開けばいい。
最近の私は、パンチャンガの判定基準を言語化し、例外を検証し、一般規則と個人補正を分け、ひとつの体系としてまとめようとしている。考えてみれば、これもまた書庫を作る作業である。
「この世のすべてが書かれた本」を探していたはずなのに、いつの間にか、自分が読んできた世界を、一冊ずつ書き残そうとしている。
そして、その本を作り続けるためのお金を、今度は汚いものだと思わずに受け取る。知識を得るために権力者へ近づく必要はなく、知識を伝えるために自分を犠牲にする必要もなく、お金と引き換えに倫理を手放す必要もない。
自分の知識を、自分の責任で整理し、適切な対価を受け取りながら、必要な人へ渡していく。それが、このD9に残された宿題なのではないかと思っている。
過去生が本当に存在するのかどうかは、今も分からない。けれど、あの日に聞いた物語と、自分が生まれた瞬間から持っているD9に、同じ構造が描かれている。
そのことが、私は面白くて仕方がない。









